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【連載】君の一歩は未来に向けて(3)

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スイスへ出発する反町選手と関口さん
スイスへ出発する反町選手と関口さん

【3】

スイスから届いたLINEのメッセージには、登山鉄道の列車の車窓から撮影した写真が付いていた。列車は、富士山よりもずっと険しそうな山の中腹を進んでいる。深緑色の斜面に残っている雪が、陽の光を受けてキラキラと輝いている。水彩絵の具のように透明感のある青色の空は、地上にあるすべてのものを包み込んでいる。風に流されている白い雲は、列車の窓から手を伸ばせば届きそうだ。

由美さんは、列車の窓から顏を出し、カメラに向かってピースサインをして微笑んでいる。

 公紀とコーチの関口宏樹さんが日本代表選手団のメンバーとして成田空港から飛び立つのを見送った翌日、由美さんは二人を追いかけるように旅立った。


パラジュニアの世界陸上がスイスで開幕し、息子の公紀はすでに200mの競技を終えている。メダル争いをするレベルには、まだ届かない。海外の選手と比べると公紀の体の小ささが一際目立っていたと、由美さんがLINEで私に知らせてくれた。それでも、200mの27秒78は、公紀個人にとってセカンドベストのタイムだ。日本代表として初めての国際大会で、まずまずのタイムの滑り出し。順調といっていい。

 2020年に東京パラリンピックの開催を控えているとはいえ、テレビも新聞も、パラリンピック以外の国際大会について報道することはまだ少ない。パラジュニア世界陸上の情報を入手するには、日本パラ陸上競技連盟がFacebookのページに投稿するものを確認するか、国際パラリンピック委員会(IPC)のウェブサイトに公式の結果が掲載されるのを待つしかない。公紀の結果に関しては、息子を応援するために現地まで観戦に行っている由美さんからの情報が、一番早い。私にとって確実な情報源は、由美さんだった。


 私はスマホをテーブルの上に置き、開いたままになっていた弁当箱の蓋を閉じた。昨日の夕食時に調理した卵焼き、ヒジキの煮物、肉じゃがをレンジでチンして詰めた弁当は、すでに空になっているが、スマホを片手に口に運んでいたせいか、どんな味だったのかよく覚えていない。

 東京・神保町にある出版社のオフィスは冷房が効いていて、足もとが寒い。フリースペースに5つほど並べて置かれている2人掛けの小さなテーブルは、私が腰かけているもの以外、すべて空いていた。昼食で混雑する時間帯なら、クラシックかジャズの慣れ親しまれた曲を流してくれているが、音楽はすでにオフになっている。午後14時を過ぎ、社員のほとんどは1つ階下のフロアでパソコンに向かって原稿を書いたり、印刷前の原稿のゲラを確認している。


 8月だというのに、東京は梅雨に逆戻りしたようなぐずついた天候が続いている。どんよりした曇り空にうんざりし、気分がすっきりしなかったが、パラジュニア世界陸上が始まってからは、心の奥に弾むものがあった。私は、仕事の休憩時間になる度にスマホを開き、由美さんからのLINEを読んだ。

 公紀は、プレッシャーに負けていないだろうか。海外の選手たちと走ってどんなことを感じただろうか。彼の胸の内を推しはかる。自分の息子でも親戚の子でもないが、公紀のことが気になった。なぜ、気になるのか。私自身もよく分からない。


 スマホの画面に指を走らせ、黄緑色の背景に、白い吹き出しで表示される由美さんのメッセージを下へ、下へ読み進んだ。

 「私とも目を合わさず、ラインも既読のみ。日本から応援に来ているのは、私だけ。恥ずかしいのかな」

 スイスに到着した由美さんは何度か、公紀にLINEでメッセージを送っているが、本人から、まったく返信がないらしい。

 パラジュニア世界陸上の大会期間中は、公紀は日本代表選手団の一員として、集団行動をしている。日常生活のサポートが必要なため、コーチの関口さんが同室で過ごしており、由美さんは一人、別のホテルを個人で手配して滞在していた。公紀の様子が見えない分、由美さんは些細なことまで気になるのかもしれない。

 18歳の少年には、母親の応援が気恥ずかしいものなのかもしれない。私自身が10代の頃を振り返ると思い当ることがある。自分のために親がしてくれることを、鬱陶しく感じた時期があった。話しかけられても返事をしない。相手が自分の親だからこそ、傲慢な態度をとることができたのだ。自分が大人になり、親に近い年齢になった今、それが分かる。しかし、公紀にとって、由美さんの応援は国内の大会では毎度のことだ。今さら急に恥ずかしいも何もない気がする。

 ただ、日本代表選手として臨んでいるパラジュニア世界陸上は、国内の大会とは違う。日の丸を背負っている公紀は、これまでにない緊張やプレッシャーを感じているのかもしれない。それがストレスとなり、それを発散するはけ口が、身近な人に向いてもおかしくはない。


「明日の試合を観に行くべきかどうか、迷っています」

スマホの上で、人差し指のスライドを止めた。何かが、変だ。公紀と由美さんの間で、何か起きているのだろうか。

公紀は、100mのレースを控えている。由美さんは、それを観戦するのを辞めるか否か、迷っている。

 「関口君には、スイスに着いた当初から、あれやって、これやってと、家族のように。最初は、周囲の人にも態度が悪かったようです」

 公紀と関口さんの間で、何かあったのか。公紀が、わがままな態度をとって、関口さんを困らせているということなのか。母親が観客席に姿を見せることで、公紀の態度が変わるのか。それが、結果として関口さんの負担になっているのか?

 「甘え」「わがまま」。そんな言葉が頭の中に浮かんだが、現実味がなかった。私が公紀について知っていることは、そう多くない。競技場で走っている姿を見るか、週1回、LINEでの短い言葉のやりとりをするかの関係だ。公紀が感情を爆発させるような場面には出くわしたことがない。


 雄大なスイスアルプスの景観を背景に撮影した写真の由美さんは、楽しそうに見えた。しかし、心の中では、公紀が出場する100mを観に行くかどうかを迷っている。

もし、由美さんが息子のレースを観に行かないという選択をしたら、どうやって一日を過ごすだろう。ホテルの一室でスマホの画面とにらめっこしながら時間を潰すにちがいない。関口さんからレースの結果の情報が届くまで首を長くして待つはずだ。

 スマホの画面上に白い空欄が浮かんでいる。私は、どう返信したらいいのか、迷った。

由美さんがレースを観に行くのは、公紀のためだ。公紀を応援するために、スイスまで出かけている。観に行かない理由もまた、公紀のためだ。母親が観に行かないほうが良いと思えば、我が子を観たい気持ちを抑えて、観に行かない選択をするだろう。

公紀にとって、どちらが良いのか。由美さんにとって、どちらが良いのか。私には、分からない。ハッキリした答えが見つからないまま、LINEに文字を入れた。

 「観に行かなくても気になるなら、観に行ったほうが良いですよ」

 私の返信は、すぐに既読になった。


(2017年8月掲載)

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