
【4】
JR高崎駅ビル内のスターバックスは、大学生のカップルや女子高生たちで賑わい、隣の席から甲高い笑い声が響いてくる。私が仕事の帰りに立ち寄る東京・神保町のスタバでは、ノートパソコンを開いて書類を作成している人や、商談か打ち合わせをしている人の姿が珍しくないが、この店舗では一人で仕事をするビジネスマンは浮いてしまいそうだ。同じスタバでも、どの地域にあるかによって、集まる人がまったく違う。都内で生活している私と、高崎市で暮らしている関口紘樹さんとは、日々の生活の中で見ている風景が違うのかもしれない。
公紀の練習をみている関口さんは、特別支援学校の教員として働いている。2017年4月から正式採用され、臨時教員だった期間を入れても教員歴はまだ1年半。隣の席で談笑している大学生たちに混じっても違和感がないだろう。
「これまでも国内の陸上大会で公紀に同行したことはあったんですけど、今回のパラジュニア世界選手権は計11日間、公紀と一緒に寝て、起きて、すべての食事も一緒です。まず、そのことに大丈夫かなという不安がありました。競技のことよりも、生活面での不安が大きかったです。僕は、海外に出かけるのも今回が初めてでしたし、日本選手団の中で公紀にコーチとしてどのように関わるかも初めての経験でした」
関口さんが公紀と出会ったのは、大学4年生の時。都内の大学で学んでいたが、卒業後の進路として特別支援学校の教員を志望していた。群馬に帰省した際、高校時代の恩師である反町由美さんを訪ねた。由美さんの息子の公紀が交通事故で高次脳機能障害であることは以前に聞いていた。障害のある子どもたちを教える仕事を志していたことや、中学から大学まで陸上の経験があったことがつながり、教育実習で帰省する際に、公紀の陸上の練習をみることを約束した。それがきっかけとなり、教員となった今も、休日に公紀の練習につきあう関係が続いている。
パラジュニア世界陸上の大会期間中、公紀を一番近くで見ていた関口さんに、私はどうしても聞きたいことがあった。
公紀が出場する100mを観に行くべきかどうか、母親の由美さんが悩むことになったのは、なぜか。
関口さんは、その理由を知っているはずだ。それは時間が経てば誰の記憶にも残らないほど、ささやかなことなのかもしれない。母と息子あるいはコーチと選手の関係の中でよくある些細な諍いで、喧嘩とも呼べない小さな衝突だったかもしれない。そうであったとしても、私はそれが何だったのか知りたかった。
「公紀の様子を見ていて、何か探しているな、何か言いたそうだなという雰囲気を感じる時がありました。でも、僕は、あえて気がついていないふりをしました。公紀がホワイトボードに何か書いて伝えてきたら聞いて、対応するようにしたんです」
公紀が衣類の脱ぎ着を、どうしているのか。荷物の整理整頓を、どうしているのか。日々の生活の中で、由美さんに手伝ってもらっているのはどんなことなのか。関口さんは、公紀をサポートする役割を引き受けたものの、生活面では何をどこまで手伝えばいいのか分からないまま、ぶっつけ本場で臨んでいた。
公紀から言葉で伝えてもらわなければ、分からない。それは、彼を取材している私も同じだ。
スイスに出発する約1カ月前、町田市で開催された関東パラ陸上競技大会で、公紀にパラジュニア世界陸上への抱負を尋ねた。公紀は、一瞬、宙を仰いだ後、頭を少し傾けた。その姿は、脳の底から一文字一文字をひねりだし、自分の考えていることと、それを表す文字が合っているかどうかを確認しているかのように見えた。
黒いマジックペンのインクがホワイトボードの上に乗り、「大会で、自分が頑張ります」という意思を示した時、私には安堵に近い感情が沸いた。たった一言でも、公紀を知る手がかりがそこにあったからだ。
スイスのホテルの一室で、公紀に必要になった言葉。それは、「スマホ、どこに置いたか知らない?」というような、たわいもないことだったにちがいない。もし、傍にいるのが母親の由美さんだったら、公紀の視線や体の動きを見ていて、何をしたいのか、おおよそ察しがつき、「スマホなら、ここにあるでしょ」と声を掛けたかもしれない。
関口さんも、公紀の様子を見ていて、何か困っていることには気が付いていた。彼が何をしてほしいと考えているのか推測がついたこともあった。公紀が醸し出している空気を察して、関口さんから「何か、困っているの?」と声を掛け、積極的に手を貸す選択肢もあったはずだ。しかし、関口さんは、それを選ばなかった。
「公紀に困った表情を醸し出すだけではダメだよ、まず、自分からそれを人に伝えないとダメだよということを理解してほしかったからです」
自宅であれば、困っている雰囲気を醸し出すだけで由美さんが手伝ってくれたことを、言葉にして、関口さんに頼まなければならなかった。たわいもない頼みごとを、一つひとつ文字にして相手に示さなければならないことが、公紀にとっては面倒だったかもしれない。関口さんに遠慮をして、自分が我慢すればよいと考えたこともあっただろう。公紀の心の中に沸いた思いのいくつかは、言葉にされないまま、胸の内に貯まっていった。公紀だけでなく、気がつかないふりをし続けている関口さんも忍耐の日々だっただろう。公紀も、関口さんも、互いの思いが通じない苛立ちを積もらせていた。
そんななか、パラジュニア世界陸上が開幕した。
「最初の種目の200mは、計測機器の不具合で、競技の開始が1時間ほど遅れたんです。スタートの音も、パーンと甲高い音なら反応して飛び出しやすいのですが、スタート音は小さくて聞き取りづらかった。公紀だけでなく、他の選手もスタートの反応が難しかったと思います。公紀は、200mを走り終わった後、やっちまった、という顔をしていました。自分の走りが良くなかったことは分かっていたと思います。ゴールをした後、苛立ちが前面に出てきました」
関口さんは、競技を終えた公紀に「クールダウンをしておいでよ」と声を掛けた。公紀はそれを聞かず、無視した。日本代表の選手やスタッフが集まっている群れとは逆の方向に、一人で歩き出した。
「一人にしてくれ。クールダウンなんて、そんなことをやっている場合じゃないんだ」
関口さんには、公紀の態度がそう言っているように見えた。
日本では、交通事故で重傷に陥った時、命を救ってくれた病院の先生たちが応援してくれている。今春、大学に進学した中学校の同級生たちには、自分は陸上で頑張っていることを伝えたかった。自己ベストを更新し、みんなから祝福されるような結果を残したい。日本を出発する前から、公紀の心の中には、熱く燃えているものがあった。
しかし、最初の種目200mを失敗した。
公紀の理性のストッパーが外れた。スイスに到着してから、ずっと胸の中に溜めこんでいたものが一気に噴出した。不満、苛立ち、怒りがマグマのように飛び出した。競技場の一角、他の選手やスタッフがいる場で、コーチの関口さんを無視し、一人で勝手な振る舞いをするのは傲慢だが、感情の抑制ができなくなっている公紀には、どうしようもなかった。
茶褐色のテーブルに置かれた白地のマグカップには、微笑む人の顔のマークが緑色で印字されている。その顔は、多くの人が親しみを感じるようにデザインされたロゴマークだ。記憶に刷り込まれ、その顔を見るだけでコーヒーの香ばしい香やほろ苦い味を思い出す人もいる。言葉にしなくても、伝わるものがある。
「結構な態度でしたよ」
関口さんは、プラスティックの透明なカップを手に取り、ストローを口にした。カップの表面には細かい水滴が付いている。氷はすっかり溶けて、もう形を残していない。
関口さんから由美さんへのLINEで、スイス滞在中の公紀の態度や様子は細かく伝えられていた。競技場の観客席から公紀の態度を目にした由美さんは、次に予定していた100mを観戦するかどうか悩んだ。母親が傍で見守っていることが、公紀の「結構な態度」を増長させる要因になっているかもしれないと感じたのだろう。
「ホテルの部屋で、公紀が何かしてほしそうな雰囲気を出していても、僕があえて気が付かないふりをしたのは、自分から伝えないとダメだということを理解してほしかったからです。ただ、パラジュニアの世界選手権という場で、僕がそういう対応をするべきことなのかどうかという思いはありました」
自分の選択が正しいのかどうか、関口さんにも迷いはあった。
私が、関口さんの立場だったら、どうしただろう。ホテルの一室で、公紀が居心地よく過ごせるように気を配り、困っているように見えたら、すぐに声を掛けたかもしれない。自分の配慮が十分でないことで、彼が不安や苛立ちを感じることがないよう、できる限り、気を遣うかもしれない。ただ、そうすることは、本当に公紀のためになるだろうか。
困難を抱えている人に積極的に手を貸して助けたほうが良いか。それとも、あえて手を貸さないで見守るのが良いのか。どちらが良いかは、簡単には言えない。
手を貸さないことで、相手は自ら考え、行動するかもしれない。たとえ失敗しても、それが経験となり、次の挑戦につながることもある。
しかし、手を貸さなかったことで、最初の一歩を踏み出すまで時間が掛かり、挑戦の適切なタイミングを逃すかもしれない。失敗が心の傷となり、不安を増幅してしまうこともある。
手を貸すことは、相手が困難を克服するのを助ける。手を貸したほうも、自分がしたことが相手の役に立ったと知れば、気分は悪くない。困っている人に手を貸さなかった時に感じてしまう罪悪感とは無縁でいられる。しかし、手を貸すことは、結果として、相手が自分の意思で挑戦し、失敗も含めて経験するチャンスを奪うこともある。
現在19歳の公紀は、これから先、母親の由美さんやコーチの関口さんだけでなく、さまざまな人にサポートをお願いしなければならない場面が出てくる。公紀の様子を見て、何に困っているかを察してくれる人ばかりではない。公紀の日常生活をよく知らない相手には、自分から何をどうしてほしいのかを言葉にして伝えなければ、理解してもらえない。自分の思いを自分で伝えることがなければ、新しい人間関係も始まらない。
関口さんは、パラジュニア世界陸上の結果だけでなく、これから先の公紀のことを想っていた。そして、自分の態度を決めたのだ。
結局は、自分自身が決断するしかない。相手にとって、今、ここで、どうするのが良いのかを考えて選ぶしかない。
私は、公紀とのLINEのやりとりを思い浮かべた。公紀の返信は、「午後から練習」などと自分のスケジュールか、「頑張ります」と前向きな一言を書いてくることが多い。その短い一言、一言の間に、公紀の思いや考えが埋もれている。私はそれを手探りで掘り出し、拾い上げようそとしている。
スイスのホテルの一室で、公紀が胸のうちに貯めていたたものは何だったのか。競技場の一角で、関口さんを無視して勝手な振る舞いをしてしまった時、彼は何を感じていたのか。
公紀が「結構な態度」をとることができたのは、関口さんが自分の態度を決めていたからかもしれない。気が付かないふりをし続けた関口さんの態度は、公紀には、頑なに見えた。相手の揺るがない態度に対して、公紀は自分の不満や苛立ち、怒りをどうしようもなく、そのままさらけ出すしかなかった。
公紀とやりとりを続けながら、私は、ずっと待っていた。公紀の考えや気持ちが揺れ動き、それを垣間見られる瞬間を待っていた。そこには、公紀のことをより深く知る手がかりがたくさん落ちている。
(取材・執筆:河原レイカ、2017年8月掲載)
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