【連載・第2回】パラリンピック初出場までに「16年」が必要だった理由
- paraspoofficial
- 4月21日
- 読了時間: 5分
更新日:4月24日

◆16年の競技歴、最初からパラリンピックを目標に
――陸上競技を始めた当初から、パラリンピックが目標だったのですか?
「それはもう競技を始めた最初から。パラリンピックには絶対、いつか出場してやるぞって思っていましたね」
吉田は高校生の頃はラグビー部に所属していた。立教大学に進学し、同級生に誘われて相撲部に入った。もともと体と体をぶつけ合うような激しいスポーツが好きで、体力や持久力には自信があった。それもあって、就職は消防士を選んだ。
しかし、2005年5月、24歳の時にバイクの事故で障害を負い、車いす生活になった。陸上との出会いは、埼玉県所沢市にある国立障害者リハビリテーションセンター(国リハ)に通っていた時だ。
吉田は、リハビリの一環として、様々なスポーツのプログラムに参加した。車いすバスケ、車いすバドミントン、そして車いす陸上。その中で最も楽しかったのが、陸上だった。陸上競技用の車いす(レーサー)を借りて乗ると、日常生活用の車いすよりも視線が低くなった。レーサーの車輪の外側についているハンドリムと呼ばれる漕ぎ手を押すと、スーッと前へ進んだ。漕ぎ方に慣れるにつれて、徐々にスピードが上がる。上半身で風を切って走る感覚を体感した。
自分の足ではもう走ることができない。しかし、レーサーに乗れば再び、走ることができる。「これだ!」と吉田は思った。
マラソンのように長い距離を走るには、体力や持久力が要る。それらには自信があった。
「一番苦しい、きついことをやりたいと思ったんです」
吉田は、自分自身の肉体を限界まで追い込みたいと思っていた。
国リハの食堂には、パラリンピックの選手たちの記事が掲載されたスポーツ雑誌が置かれていた。ページをめくると、車いす陸上選手の写真やインタビュー記事が掲載されていた。
パラリンピックという世界の舞台に挑戦する選手たちの姿は、輝いて見えた。競技に掛ける思いや目標を語る彼らの言葉は熱く、胸に響いた。
「かっこいいな、って思ったんです。それで、自分も絶対、パラリンピックを目指そうって」
吉田の目標は、決まった。
私の質問を受けて、答えはじめるまでのわずかな時間。吉田は両方の瞼を閉じた。視界から入るものをいったん遮断して、記憶を遡っているようだ。自身の記憶の中から、一番ぴったりくる答えを探しているように見えた。
◆持久力を追求、足りなかった経験値
――パラリンピックを目指すと決めた後、どのように練習していたのですか?
「最初は、東京都北区にある障害者総合スポーツセンターに行ったんです。車いす陸上をやりたいと相談したら、以前は車いす陸上のチームがあったんだけど今は解散してしまったから、自分で練習してくださいみたいなことを言われて。自分でやってくれと言われてもレーサーを持っていないし、練習の仕方も分からないし。それで所沢の国リハに週1回通って、レーサーを借りて、自己流で走っていました」
2007年、品川区役所に就職が決まると、先輩にソウル・パラリンピックに出場経験がある陸上選手がいた。その先輩から、横浜で練習している車いす陸上の仲間を紹介してもらうことができた。
「横浜ラポールで一緒に練習していた人たちは皆、マラソンをやっていたんです。距離をひたすら走る練習です。隣にある日産スタジアムの駐車場に入るところに周回できる道が1キロ弱あって、雨が降っても濡れないで走れるので、そこを何周も走っていました。区役所の仕事を終えて横浜に行き、平日夜7時過ぎから9時まで、毎日30キロくらい走っていました。土日もそれぞれ40キロ走っていて。練習が終わって帰宅したら、飯食って寝るという生活でした。ひたすら持久力をつけることを目指して練習していましたね」
吉田は、2008年の東京マラソンの10キロレースを皮切りに、レースに出場し始めた。マラソンの自己ベスト記録は徐々に更新していたが、2012年ロンドンパラリンピック、2016年リオ・パラリンピック、2021年東京パラリンピックの3大会では日本代表には選出されず、月日は流れた。
パラリンピック日本代表選考の基準は、日本パラ陸上競技連盟を通じてパラリンピックの開催の前年に示される。パラリンピックの大会ごとに基準の詳細は変わるが、前提として、国際パラリンピック委員会(IPC)が定める車いすマラソンの参加標準記録は突破していることが条件になる。そのうえで、世界パラ陸上競技連盟(WPA)主催のパラ陸上マラソン世界選手権の上位入賞や、WPA世界ランキングで上位に入っていることなどが、日本代表選考の指標とされてきた。
「2016年のリオ・パラリンピック出場を視野に入れていたんですが、日本代表になった選手たちと比べると自分には経験値が足りなかったですね。若かったから、ただがむしゃらに走って、選考レースの勝負どころになると負けてしまいました。でも、その頃は持久力でひたすら押していけば、いつか勝てるようになると思っていたんです。今になって考えると、走る距離は積んで持久力はやってきましたけど、スプリント的なところは全然、弱かったと思います」
◆「必要ない」から「面白い」に
2021年の東京パラリンピックが終わり、次のパリ・パラリンピックを見据えて取材で注目する選手を考え始めた頃、私は吉田のトラック種目5000mの記録に目を止めた。
2022年に吉田が出した記録(10分18秒73)は、この年のWPA世界ランキングのトップ10に入っていた。吉田はさらに自己ベストの記録を更新し、2023年は10分を切って9分48秒83を出している。パリ・パラリンピック開催前の2年間は特に5000mのタイム更新が著しい。
――トラック5000mでの好タイムを狙えるように、トレーニングを変えたのですか?
「車いす陸上は、自転車競技に近いというのはずっと思っていたんですよ。自分で自転車競技のトレーニングの本を読んだり、調べたりしていたんです。2018年にパラ陸上競技連盟の合宿で、自転車競技のトレーニングの専門家である柿木克之さんと平松竜司さん(東京大学大学院農学生命科学研究科・農学部准教授。2020年度からパラ陸上競技連盟の理事)から話を聞く機会がありました。2人とも以前にパラサイクリング(自転車競技)の強化をされていた方です。その時に、僕は自転車競技のトレーニングの中で僕に使えるものが何かないか、2人に質問しにいったんです。そこからですね、大きく変わったのは」
(つづく)
(取材・撮影:河原レイカ)
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