top of page

数値化できない目標

  • paraspoofficial
  • 16 分前
  • 読了時間: 6分

車いすマラソン 鈴木朋樹


 

鈴木朋樹選手
鈴木朋樹選手

「マルセル選手と一緒に走るにはスピードが必要です。それと妥協しないことです」

 

第44回大分国際車いすマラソン。

前日に開催された有力選手の記者会見で、男子日本記録保持者の鈴木朋樹(31歳、トヨタ自動車)は、レースの目標について、こう話した。

 

鈴木の隣には、招待選手の一人、世界記録保持者のマルセル・フグ(39歳、スイス)が座っている。今シーズンのマルセルは、これまでに出場した6つのメジャーマラソン(ボストン、ロンドン、シドニー、ベルリン、シカゴ、ニューヨーク)すべてで優勝している。この大分国際も当然、優勝を狙っているだろう。

 

国内で開催されるレースゆえに、日本のトップ選手である鈴木の健闘が期待されている。世界王者マルセルに鈴木が食らいつき、その座を脅かすようなレースを見たいところだが、

壇上にいる鈴木は、マルセルとは力の差があることを認識しているのかもしれない。優勝や着順、記録については触れず、「マルセル選手にしっかり付いていけるように、一緒にレースができるように頑張りたい」と話した。

 

会見を終えた鈴木を、記者たちが囲み、追加の取材が始まった。

 

記者の一人が、鈴木が会見で口にした「妥協をしない」という言葉の意味を尋ねた。

鈴木は、「妥協しない」=「ベストを尽くすということ」と言い換えた。さらに「どんなにキツイ場面でもキツイと思った時点でマルセルには離されてしまう。しっかりと気持ちを整えて、マルセル選手に付いていくというマインドで走りたい」と付け加えた。

 

マルセルが保持している世界記録1時間17分47秒は、2021年にこの大分で樹立したものだ。

単純計算すると、42.195キロを平均して時速32キロで走っていることになる。いわゆるママチャリの自転車を全速力で漕ぎ続けても、マルセルに付いていくのは難しい速さだ。


競技用車いす(レーサー)で、どの程度の速度を出せるのか。 32キロ近くの速度を維持して、どの程度の距離を走り続けることができるのか。 「速度」や「距離」は、数値で表すことができる目標だ。

 

一方、「妥協をしない」「ベストを尽くす」は、当事者自身の感覚、気持ちに依るものであり、第三者が数値などの客観的な指標を用いて評価できるものではないだろう。

達成できたか否かは、本人にしか分からない。

 

10年近く車いすマラソンを取材してきた中で、鈴木の話からいつも感じるのは、目標が明確ということだ。鈴木自身の中で、このレースでどのような走りをしたいのか。何を達成したいのかをはっきり決めて臨んでいるのだろう。

ただ、この大分国際の前日取材では、「妥協をしない」という言葉に、鈴木の思いが強く乗っているように感じた。鈴木が自分自身に言い聞かせているように聞こえたのだ。

 

速度や距離など数値化できる目標も重要だが、今回の大分国際は、数値で測ることができない目標を達成することが、彼にとって、より重要なのかもしれない。

 

レースを走り終えた後、鈴木は、どのように自己評価をするのだろう。

数値化できる目標、数値化できない目標それぞれを念頭に置きながら、聞いてみたい

と思っていた。

 

11月16日。

レース当日の大分市内は、晴天に恵まれ、風も少ない。絶好のマラソン日和となった。

 

大分国際のコースは直線が多く、好タイムが出ることで知られている。

競技用車いす(レーサー)は、曲がり角を曲がる時にはいったんスピードをやや緩めて方向を変える必要があるが、直線が多ければその必要が少なく、高速のまま走り続けることができるからだ。気象条件が整っていたことで、レース前から好記録への期待が高まっていた。

 

午前10時、車いすマラソンのランナーが、大分県庁前を一斉にスタートした。

スタートして間もなく、先頭集団は世界王者のマルセル、そして中国の羅興伝、日本の鈴木の3選手に絞られた。

 

トップ争いに動きがあったのは、序盤10キロ過ぎだ。

マルセルと羅から、鈴木が遅れた。

上位2選手と鈴木との差は一気に広がり、先頭集団を追っていた中継の映像カメラは、鈴木の姿を捉えられなくなった。


中間21キロを過ぎた地点で、羅が遅れ始めた。残り半分の距離を、マルセルと同じ速度で走り続けることは難しかったようだ。


マルセルは一人、悠々と独走体制に入った。高速スピードを維持して走り続け、ゴールに飛び込んだ。記録は1時間17分51秒。世界記録まであと4秒に迫るタイムだった。

2位に羅、鈴木は3位に入った。

 

「今年やってきたことは、すべて出し尽くした感じです。本当に燃えカスも残っていない。そんなレースでした」

 

鈴木は、レースの後、放送局のインタビュアーからマイクを向けられて、こう口火を切った。ゴールした直後は、肩で息を切らしていたが、呼吸はすでに落ち着いている。ただ、レーサー漕ぎ続けた両腕から肩甲骨、背中へかけては疲労感が漂っていた。

 

「10キロくらいで、彼ら(マルセルと羅)のローテーションに加われなくなって、付いていくのがやっとになり、登坂で離れてしまいました。気持ち的には、めちゃくちゃ悔しいです。でも、今年はトレーニングを少し抑えてやってきているので、メンタル面では耐えなくてはいけない。この負けを受けとめて、次に生かしていいかなければならないと、ゴールしてからは思っています」

 

鈴木は、レースの感想を一気に話した。

序盤の10キロ付近で、マルセルと羅に付いていけなくなったこと。

「悔しい」という気持ち。

さらに、その気持ちをどう受けとめるべきかを考え、折り合いをつけようとしていることまで触れた。

 

2024年のパリ・パラリンピックの車いすマラソンで、鈴木は銅メダルを獲得した。

次の照準は、2028年開催予定のロス・パラリンピックになるが、それまでの4年間の最初の年から全身全霊を掛けてレースに臨んでいては、身も心も持たない。今シーズンは、トレーニングを抑えて、心身ともにゆとりを持たせて、レースに臨んでいた。


今シーズン取り組んできたトレーニングの内容について、後悔している様子はない。

「この内容のトレーニングをここまでやったから、ここまでの力が出せる」という数値的な指標は、鈴木の頭の中に入っており、大分での走りは、想定の範囲内だったのかもしれない。

 

レース前日に話していた「妥協しない」「すべてを出し尽くす」という目標と照らし合わせて考えると、それらは達成したと言っていいのだろう。

 

一方で、鈴木は、自身の中で沸いた「悔しさ」を滲ませた。

今シーズンは、次のパラリンピックにむけて、「負け」を受け入れなければならない状態をつくっている。それでも、レースに臨むと、彼は「勝ちたい」のだ。

 

数値化できる目標、数値化できない目標それぞれに意味があり、どちらも重要で、時と場合によって使い分けが必要かもしれない。ただ、どのような目標も掲げているだけでは意味がなく、その達成に向けて行動を起こすためのものだろう。

 

鈴木はなぜ、妥協せずに、走り続けることができるのか。

「めちゃくちゃ悔しい」という一言に、彼の原動力が詰まっている気がした。

 


 

(参考)

◆2025年ワールド・マラソンメジャーズ

(計7レース:東京、ボストン、ロンドン、シドニー、ベルリン、シカゴ、ニューヨーク)

 

◆マルセル・フグ

ボストン 1位 1時間21分34秒

ロンドン 1位 1時間25分25秒

シドニー 1位 1時間27分15秒

ベルリン 1位 1時間21分46秒

シカゴ  1位 1時間23分20秒

ニューヨーク 1位 1時間30分16秒

 

◆鈴木朋樹

東京     1位 1時間19分14秒

ロンドン   2位 1時間26分09秒

シドニー   2位 1時間33分29秒

シカゴ    3位 1時間27分29秒

ニューヨーク 3位 1時間36分28秒


(取材・撮影:河原レイカ)

コメント


bottom of page