東京マラソン 勝負どころは序盤の坂道
- paraspoofficial
- 3月3日
- 読了時間: 8分

自転車に乗って坂道を下った経験がある人なら、おそらく想像できるだろう。
ペダルに載せた足を踏み込まなくても車輪の回転数が上がり、スピードが上昇する。
風を切って前進していく車体に自分の体重を預けると、さらに加速する。
自力を使って走るというよりは、勝手に転がっていくような感覚だ。
競技用車いす(レーサー)は、小さな前輪1つと座席の両サイドにそれぞれ車輪が付いている。上から見ると細長い二等辺三角形のような車体になっている。車いす選手たちは左右のホイールについている漕げ手を両手で押し出す。すると、漕ぎ手に連動している車輪が回転し、車体が前に進む。
車いすの選手たちはよく、坂道の走りについて「転がす」と表現する。「転がる」ではなく、「転がす」と言うのは、レーサーが勝手に走るわけではなく、自分の身体を使って走らせていることを実感しているからに違いない。
3月1日に開催された「東京マラソン2026」
この大会は、7つの国際マラソンで構成される「アボット・ワールドマラソンメジャーシリーズ」(東京、ボストン、ロンドン、シドニー、ベルリン、シカゴ、ニューヨーク)の初戦に位置づけられ、車いすマラソンの選手たちにとっては、2026年のシーズンの幕開けとなる。
東京駅の丸の内改札口を出ると、ゴール周辺の交通規制が始まっていた。大きなキャリーケースを脇に置いた男女が警察官に何か尋ねている。
東京マラソンのロゴが入ったジャンパーを羽織っているスタッフが、ビルの入口に立ち、関係者か否かを確認している。私は背負っていたカメラバッグを下ろし、事前に入手したメディア用のパスを取り出して首から下げた。ビルの入口でそのパスを見せると、スタッフの一人がエレベーターのボタンを押してくれた。
ビルの7階に設けられたメディアセンターは、前方に会見用の舞台が設けられている。舞台を正面にして長机が並べられており、記者やカメラマンがそれぞれ陣取っていた。一般の新聞、スポーツ紙、陸上の専門雑誌などの記者が多く、2028年開催予定のロス・オリンピックを目指す実業団・大学所属の選手たちの取材に来ているようだ。ノートパソコンで選手の資料を確認したり、ネットを見たりしている。壁際に置かれたホワイトボードには、レース後に予定されている、優勝者や大会関係者の会見の時間割が書きだされていた。
舞台の上方には、単館の映画館にあるものと同じくらいのサイズのスクリーンがあり、一般のマラソンの中継映像が映し出されている。全国ネットの局で、海外からの招待選手や日本の実業団所属の選手たち、一般参加で出場する芸能人ランナーなどを主に中継する。
車いすの選手たちの姿はスタートや先頭の折り返し、ゴールなど要所のみ映る程度だ。車いすのレース展開は別に、CS放送で生中継される。
レース展開をメモするための筆記用具を手に、メディアセンターの部屋の入口を出るとテレビのモニターが2台設置されていた。1台は全国ネット、1台はCS放送に設定されている。車いすマラソンを取材に来ている記者は私を含めて数人だが、モニター前には椅子が10席程度、用意されている。私はCS放送を映すモニターの正面の席を陣取った。
画面には、鉄筋コンクリートの巨大な建物が映し出されている。
東京都庁前のスタート地点には、青空の下、色とりどりのユニフォームを身に着け、ヘルメットを被った車いすの選手たちの姿が見える。
両手をだらりと下げている者、じっと前方を見つめている者、体を前傾し顔を地面のほうへ向けて伏せたままの者。それぞれが自分の方法で、レースへ意識を集中しているようだ。スタートの時刻が刻一刻と近づいている。
男子車いすマラソンの世界記録は1時間17分47秒。その記録を保持しているマルセル・フグ(スイス)は、「銀色の弾丸」というニックネームの通り、銀色のヘルメットを被っている。前回の東京マラソンで2位に入った羅興伝(中国)の姿も見えるが、表情はよく分からない。
2025年11月の大分国際車いすマラソンではフグが1位、羅が2位に入った。
大分国際で3位に入った日本記録保持者の鈴木朋樹は、コンディション不良を理由に今大会を欠場している。今回の東京マラソンの出場選手の顔ぶれと、これまでの実績から考えれば、まず、フグと羅の2選手が優勝候補と言えるだろう。
ただ、東京マラソンは、冬季のトレーニングを経て、シーズン最初のレースだ。これまでの実績に関係なく、この冬に鍛えぬいて急成長した選手が出現するかもしれない。
ラウンジで記者たちに配られているホットコーヒーの香りが漂ってきた。コーヒーを取りに来た中年の男性が、知り合いを見つけて声を掛けている。3月という季節のためか、部署の異動について話す声が耳に入ってきた。
画面の向こう側で、車いすの選手たちが両手をレーサーの漕ぎ手に添え、一斉に動きを止めた。スタート地点の周囲だけ、空気が止まっているように見える。選手たちはそれぞれ、自分の心臓の鼓動を聞いているかもしれない。

午前9時5分。号砲が鳴った。
選手たちはレーサーの漕ぎ手に添えていた両手を、ぐっと押し出す。車輪が回り、車体が滑らかに滑るように前へ動き始めた。
選手の手が再び、漕ぎ手に添えられ、それを下へ押し出す。
時計の12時の位置から6時の位置へ向かった手は、地面に近い位置で漕ぎ手から離れて、後ろへ流れる。腕を引き上げ、再び手が漕ぎ手に添えられる。
両腕が上へ下へ、上へ下へと繰り返し降り下ろされる。複数の選手が集団でレーサーを漕ぐ動きは、鳥が群れとなって一斉に羽ばたくように見えた。
スタートしてまず、先頭に飛び出したのは、世界記録保持者のマルセル・フグだ。
その後ろを羅が追いかけ、フグのすぐ後ろに付いた。
フグがタン、タン、タンとリズムよく、漕ぎ手を押し出している。
序盤2キロ付近、大型の映画館が入ったビルやデパートの建物が立ち並ぶ新宿の街中をフグと羅が進んでいる。他の選手たちの姿がみるみる小さくなっていくのは、先頭2選手との距離の差が広がっているからだろう。
フグが手を止め、脇をしめた。両手は車体の向きを調整する前方のハンドルを握ったまま、上半身を前傾して伏せ、低い姿勢を保っている。坂道の下りに入ったのだ。
東京マラソンは、序盤の長い下り坂が勝負どころの1つだ。
東京都庁前から新宿のガード下をくぐっていく。道の両側にはオフィスビルが立ち並び、ビルの上には広告の看板が掛かっている。普段は交通量が多く、人通りも激しい新宿の街中だが、交通規制がされて広々とした道路をレーサーが駆け抜けている。
靖国通りを進み、道の左手に防衛省がある付近は街路樹が並んでいるのが見える。江戸城の外濠に沿っている外堀通りに出ると、川に沿っている側の視界が開ける。市ヶ谷駅付近が5キロ地点だ。
レーサーは下り坂で急速に加速することができ、選手間の差が開きやすい。
東京マラソンのコースの場合、序盤の長い下り坂が終わると、比較的平坦な道が続く。多少の起伏はあるものの、高低差が少ない。
このため、序盤5キロの長い下り坂で大きな差が開いてしまうと、残りの距離で差を詰めることは難しい。表彰台を狙うなら、まず序盤5キロを先頭集団で走れることが必要だと言ってもいいだろう。
5キロ地点を通過した。
フグと羅の通過タイムはともに8分56秒。
3位集団の4選手が5キロ地点を通過したのは、9分35秒前後。
先頭の2選手からすでに40秒ほど離されていた。

選手たちが集団で走る場合、縦一列になり、先頭を交代して走る「ローテーション」をしながら加速する方法がある。先頭が風除けになることで体力の消耗を減らし、高速を維持して走り続けることができる。
前傾姿勢を保ったまま走っているフグは、ずっと前方に視線を送っている。フグは少し脇に避け、羅に前へ出るように促している。2人でローテーションをして走ろうという意思を示している。羅もそれに乗った。
羅が前を走り、フグの風除けとなって走る。
しばらくして、フグが前を走り、羅の風除けとなる。
後続の選手たちとの差が、さらに開いていく。
3位集団の4選手たちは、前を走る2選手との差を詰めようとしている気配はない。
互いにけん制し、3着争いをしているようだ。
市ヶ谷から飯田橋へ向かう道には、川沿いに桜が植えられており、お花見のスポットとして知られているが、開花にはまだ早い。古書店が立ち並ぶ神保町、電気街が有名な秋葉原に出て10キロを通過した。
先頭のフグは、リズムよく漕ぎ手を押し出しており、まだまだ余裕がありそうだ。
一方、羅は時折、上体を前傾から起こしている。腰や背中の動きに疲労の色が滲んできた。
日本橋付近、15キロ地点。
フグのすぐ後ろに付いていた羅が、遅れ始めた。
レーサーとレーサーの距離が、あっという間に広がった。
フグは羅の様子をすぐに察したようだ。自身のスピードはそのまま維持し、一人で前へ進んでいった。
優勝は、マルセル・フグ(1時間21分09)。
羅はフグには引き離されたものの、2位を守ってゴールした(1時間28分08)。
3位は4選手による争いとなり、ゴール手前の勝負を制した渡辺勝が入った(1時間33分10)。
レースを観戦する立場なら、複数の選手が終盤まで優勝争いをするレース展開が面白い。
比較的平坦なコースなら、終盤まで混戦が期待できるかもしれない。しかし、東京マラソンのコースは序盤に一番の要所がある。今回も序盤の下り坂を制した選手が優勝した。
車輪が付いた乗り物が、坂道を猛スピードで下っていく。
東京マラソンは序盤の坂道をうまく転がすことができれば、表彰台が見えてくる。
今年は2選手が先頭に躍り出たが、次回はどうか。また来年、序盤の下り5キロに注目したい。
(取材・執筆:河原レイカ)



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